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日本文學史中的文學理念

上代文學の時代背景:皇室中心の時代①壹世紀ごろには、多くの小國家が分かれて國土のあちこちに存在していた。②四世紀頃になると、大和朝廷 やまとちょうてい(日本最初の統壹政権。大和を中心とする畿內地方の諸豪族が連合して皇室から出る君主を大王、後に天皇として擁立し、4-5世紀までに東北地方以遠を除く日本本土の大半を統壹した。統壹時代の君主は軍事的英雄であったと見る說もあるが、6世紀には世襲的王制が確立し、諸豪族は臣/連などの姓によって階層的に秩序づけられて、氏姓制度が成立した。飛鳥時代から氏姓より個人の才能/努力を重んずる官司制度が発達し、7世紀半ばの大化改新後、律令制の朝廷に変質した。大和政権。)による國家統壹がなされた。③四世紀後半の朝鮮半島との交渉による帰化人の渡來するにつれて、六世紀頃には漢字も使われ始めた。④六世紀半ばには仏教も伝來した。⑤七世紀に入ると、聖徳太子は遣隋使を派遣し、飛鳥文化が栄えた。⑥七世紀の半ばには、唐の律令國家體制のもとで、大化の改新が行われ、天武天皇の時代に至って律令國家が完成した。⑦初唐の様式の影響を受けた白鳳文化が生まれた。⑧奈良時代には、天平文化が栄えた。壹 神話?伝說?說話二 祝詞と宣命三 詩歌四 詩歌ー「萬葉集」五 文學理念壹 神話?伝說?說話神話とは、古代の人々は、自然界や人間界に起こった様々な出來事を、神々の働きを中心に解釈し、說明しようとした語り伝えである。?伝說とは、古代の人々は、自然界を克服した祖先たちの姿から作り上げた多くの英雄たちの物語である。?說話とは、古代の人々は、自分たちの身の回りのあらゆることを興味深くまとめたものである。(神や英雄の話に中心があるのではなく、話の展開そのものに興味の中心を置いた物に說話がある。)1 「古事記」 712年成立   現存する最古の歴史書 天武天皇が稗田阿禮(ひえだのあれ)(生沒年未詳 天武天皇時代の語り部の舎人記憶が特に優れていたと記録にある)に読み習わせた帝記と本辭を、元明天皇の勅命によって太安萬侶(おおのやすまろ) (生年未詳ーー723年 奈良時代の學者)が記録した。上巻: 天地創造から神武天皇の誕生まで、神話の記された神代の巻である。  中巻: 神武天皇から応神天皇まで、人の世の巻で、ほとんど伝說で占められた。下巻: 仁徳天皇から推古天皇まで、人の世の巻で、僅かに歴史的敘述が見られるに過ぎない。評価:「古事記」は、天皇が國內的に思想の統壹を図り、皇室の威信を國民に示そうとして作ったものである。   天皇中心の國家建設という政治的意図によって編集されたものであるが、神話いぇ伝說の中に描かれた古代人の、豊かな空想力や、素樸で明るい生活感情を知ることができる。表記:漢字の音と訓を適當に交えた変體の漢文體で、歌謠は壹字壹音式の漢字で表記されている。2 「日本書紀」720年成立 編年體 三十巻 元正天皇の命令により、舎人親王らが編纂。巻二までは神代巻三以下は神武天皇から持統天皇までその記事の內容: ①天皇の名?年齢?治世年數?皇居の所在地を列記したの帝記 ②歴代の諸說話?伝說などの舊辭 ③諸家の記録 ④各地に伝えられたの物語 ⑤詔勅 ⑥壬申の亂に戦場に行った時の日記などの私的記録 ⑦寺院の起こりの言い伝え ⑧朝鮮?中國の史書の類評価:天皇を中心とする中央集権國家の確立にあたっての、理論的?精神的な支柱とすることを目的とし、対外的に國威を示すことにも気を使っている。(當時の先進國、中國に対して、日本國の優勢さを占めそうというねらいで編纂されたものである。)  客観的史実に基づく歴史書としての性格が強く、「古事記」に比べて、文學性が乏しい。表記:歌謠など壹部を除いて、徹底的な漢文表記をしている。「古事記」と「日本書紀」の比較 (詳見ppt) 3 「風土記」 713年 朝廷の命令により、各地の地名整理、物產品目、土地の良い悪い?作物のできぐあい、地名の起こりの言い伝え、その他古くからの言い伝えについて、地方の役所が報告した公文書(諸國に命じて、國々の產物、參禪原野の地名の由來などを報告させた地理書)現存するのは、完本の出雲の國(島根県)と、省略や欠けた部分のある常陸(茨城県)?播磨(兵庫県)?豊後(大分県)?肥前(長崎県と佐賀県の壹部)の國の五か國のもの。評価:城代の地理?文化が知られ、「古事記」「日本書紀」にない、地方獨自の神話?伝說?說話が見られる。4 他のもの ①奈良時代末期の「高橋氏文」②平安時代初期の「古語拾遺」 両方とも壹氏族の祖先以來の事跡や系譜を示したもので、古來の神話?伝說の資料として重要である。③「日本霊異記」  日本最古の仏教說話集 822年ごろ成立 薬師寺の僧景戒の編 仏教が伝わってから後に発生した仏教說話を集めたもので、奈良朝の話が多く、主として仏教における因果応報の教えを說いている。二 祝詞と宣命 祝詞?宣命 古代日本人は神を恐れ敬って祭りを行った。壹方、彼らは、言語に神秘的な霊が宿っていると信じ、よいことばや美しいことばを使えば幸いが來、悪いことばを使えば災いが來るという言霊信仰を持っていた。 祝詞 祝詞とは神々の徳を褒め稱え、神に種々のものを奉ることを述べ、神の恵み(生活の安泰?多収獲?罪のはらえ)を得たいことを願う神聖なことばである。現存するもの: 「延喜式」に載っている二十七編 「臺記」に載っている壹編だけである。宣命とは天皇が命を宣る(命令を告げ知らせる)意で、天皇が臣下に下すことばである。現存するもの:  「続日本紀」に収められている六十二編がある。祝詞と宣命の比較 內容特色表記祝詞神を祭り、皇室の安泰や國民の繁栄を祈ることば厳粛で美しい表現が工夫され、文學的要素を持つ宣命書き宣命天皇が即位などの重要な儀式のある時、神の命令を受けて、人々に告げることば類型的な內容を形式的な表現方法で荘重に表わしている(この點などは祝詞に似ている)。仏教思想など時代思想の影響も見られている宣命書き 三 詩歌 上代歌謠 「うた」の始まりは、人々の感情のたかまりが、短い叫びのことばやかけ聲として発せられたものであったろう。それらが変化成長して、壹連のことばとなり、労働や信仰などの集団生活の中で、神に対する祈りや感謝として舞楽や楽器を伴って、繰り返し歌われた。このような「うた」が上代歌謠である。上代歌謠は、長い伝承の期間を経た後、和歌の成立に強い影響を及ぼした。その多くは文字に記録されないままに失われていったが、いくつかは「古事記」「日本書紀」「風土記」「古語拾遺」「萬葉集」「琴歌譜」「仏足石歌碑」などに収められている。 記紀歌謠 記紀歌謠とは「古事記」「日本書紀」に載っている上代歌謠の総稱である。多くは宮廷に集められていたり、各地に伝わっていたりした歌謠が、神話や伝說に結びつけられたものと思われる。 內容は、自然を歌ったものは少なく、戦い?狩り?戀愛?祭り?酒宴?哀しみなど、広く古代の人々の生活全般にわたっており、當時の人々の、生き生きとした感情を汲み取ることができる。明るく素樸な歌風の中に、古代の人々の野性に満ちた情熱がみなぎっている。 表現は、対句?繰り返し?枕詞?序詞などが使用され、力強く美しい調子を持っている。歌の形式はまだ定型のものは少ないが、中に片歌?旋頭歌?長歌?短歌などの定型に近いものが見られ、後に和歌の形式に発展していったことを示している。 上代歌謠の形式は初めは壹句の音數の壹定していないものが多いが、やがて、五音?七音に整えられてくる。また、壹首の構成も壹定していないが、だいたい、右のような歌體にあたるものが見られる。 片歌五七七。二つに分かれて唱和する歌謠の壹方旋頭歌五七七、五七七。片歌二首を重ねた形式長歌五七、五七…五七七。短形式の歌に対する短歌五七、五七、七。長歌の末の反歌が獨立したものか。仏足石の歌原則として五七、五七、七、七。壹字壹音の萬葉仮名で記す例 愛(はし)けやし  我家(わぎへ)の方(かた)よ  雲居(くもゐ)立(た)ち來(く)も             ――片歌 「古事記」訳:懐かしいよ。自分の家の方から、曇が立ち上ってくるよ2 仏足石歌 奈良薬師寺の仏足石歌碑に刻まれている二十壹首の上代歌謠のことである。 內容は仏の徳をたたえたものが多い。歌體は五七、五七、七、七の形式で、仏足石歌體と呼ばれる。3 琴歌譜 981年に寫された和琴の譜本である。萬葉仮名で記された歌詞二十壹首が載せられているが、記紀のものと同じ歌謠があり、記紀の時代の歌謠と思われる。 4 萬葉集 759年(奈良時代の末期)に、古代の歌を広く集めて出來上がったものである。 現存する最古の和歌集 長い期間にわたって幾人かの編者の手が加えられ、最後に大伴家持が全體編纂を行ったと考えられる。 仁徳天皇の後、磐姫の作と伝えられるもの(347年)を最初として、759年の大伴家持の歌まで、約450年間の歌を20巻に纏めている。 歌の総數は4500首部立は巻によって異なるが、多くは雑歌?相聞歌?挽歌の三つに分類し、ほぼ年代順に並べてある。歌體は、短歌が4200首で圧倒的に多く、長歌約260首、旋頭歌約60首、仏足石歌1首。用字法は「萬葉がな」と呼ばれる特有なものである。作者は、天皇?官吏?庶民と各階層にわたり、地域も全國各地に広がっている。歌は荒けずりな面もあるが、雄大で勢いがよく、はっきりとしていて力強く、また、生活に密著していて素樸で生き生きとしている。作品は歌風の変遷によって四期に分けることができる。第四期はやや例外としても、「萬葉集」を通じて流れる歌風の特徴は、「ますらをぶり」と言われ、後に成立する和歌集や、後世の歌人たちに大きな影響を與えた。「萬葉集」歌風の変遷 第壹期 壬申の亂(672)まで 萬葉の夜明け   短歌の形式が壹応完成し、みずみずしい情感、素樸な明るさが見られる   歌人に舒明天皇、額田王らがいる。 ①額田王は「萬葉集」初期の女流代表歌人であり、歌風は情熱で力強く華麗である第二期 壬申の亂後から平城京遷都まで(710)  律令制の完成した繁栄の時期で、皇室賛歌や皇族の挽歌が多く、長歌、短歌の形式が整い、長歌の発展は著しい。   歌人に柿本人麻呂、高市黒人らがいる。 ①柿本人麻呂は「萬葉集」中第壹の歌人で、後世、歌聖と仰がれて、宮廷を讃える歌をよみ、長歌に優れ、歌は雄大な構想、荘重な調べを持ち、枕詞?序詞?対句?繰り返しなどを巧みに使っている。 ②高市黒人は客観的な態度で自然をよみ、旅情を歌った歌が優れている。 第三期 平城京遷都後、733年ごろまで  仏教?儒教?老荘思想が広まり、個性的な歌人が多く現れ、獨自な歌の境地を作り出した。  歌人に山部赤人、山上憶良、大伴旅人、高橋蟲麻呂らがいる。 ①山部赤人は天皇の行幸の時をよんだ、皇室を讃える作が多い。清澄な自然をよんだ、代表的自然歌人である。 ②山上憶良(660-733ごろ)は702年の遣唐使の壹員で、「貧窮問答歌」など、人生?社會をよんだ誠実な作品が多い。 ③大伴旅人(665-731)は老荘思想の影響なども受けた風流な文人である。第四期 734年から759年まで   政治的に行き詰まり、貴族社會には不安や動揺が広がり、現実生活からかけ離れた理知的?技巧的歌が多くなった。そして、長歌が衰退し短歌が盛んに作られた時期でもある。   代表歌人に大伴家持がいる。 ①大伴家持(生年未詳ー785年)は載せられた歌數は集中最高で、繊細で感傷的な歌風は、「萬葉集」末期を代表している。東歌?防人歌:「萬葉集」の中で、貴族たちの歌には見られない、庶民の心を伝えて感動させる歌で、東國方言をそのまま使っている點も特色である 東歌(約240首)は巻十四に見え、東國の民眾の生活から生まれた民謠風な歌で、素樸で純真な感じを持つ。防人歌は巻二十などにある。三年交代で九州沿岸の防備についた東國の青年や、その家族たちの歌で、素樸な中に別れの悲しみが歌われている。5 懐風藻 751年成立現存最古の漢詩集天智天皇時代から奈良時代に至る64人の漢詩を年代順に並べたもの 大部分が五言詩 宴會や遊覧の時の作が多い上代文學の文學理念 理念とは、ある時代の文學者たちに***通に、あるべきもの、求むべきものとして意識されていたものであると考えるなら、上代には、未だ理念というほどのものがない。ただ、記紀歌謠や「萬葉集」に見られる、感動を率直に述べる素樸な蕓術態度、つまり「明き浄き直き誠の心」(宣命)が、上代に***通な精神であったと捕えることができよう。まこと うそや偽りのない真実をいう。古代人は自然の中に神を見、その神を祭る心は、明朗素樸な心情、力強い律動感となってまことの文蕓を生んだ。「明き浄き直き誠の心」(「続日本紀」宣命)は文蕓理念として後代に受け継がれた。ますらをぶり 男性的な力強いおおらかな歌風。  「萬葉集の歌はますらをの手ぶりなり。」(賀茂真淵『にひまなび』)たをやめぶり 女性的で優美?繊細な技巧を重んずる歌風。 (「にひまなび」に古今調を評していう。)